中原中也が母への仕送りを守るために出した「知人からの手紙」、筆跡が本人そっくりだった
「汚れつちまつた悲しみに」で知られる詩人、中原中也。教科書で名前を見た人も、キャラクターの元ネタとして知った人も多いと思います。その中也の母のもとに届いたという1通の手紙が、文筆家の進士素丸さんの投稿でXに流れ、6万を超えるいいねを集めました。
書かれている文面はこうです。「中也君は学校をやめておるけど、将来有望な人だから生活費だけは送っておあげなさい」。差出人は中也の知人を名乗る人物。そして添えられている一文が、「その筆跡は中也にそっくりだったという」。
送り主は自分だった
背景を追うと、この手紙が出た状況がなかなかすごいことになっています。
中也は1926年に日本大学予科文科へ入学しましたが、1科目も試験を受けないまま同年9月に退学しています。それを実家に言わないまま、東京で仕送り生活を続けていました。1928年5月に父・謙助が亡くなり、その年、母のフクは中原家の親類から「中也は大学に行っていないらしい」と知らされます。当然、フクは本人に問い質しました。
普通ならここで観念するところですが、中也が取った手段が、偽名を使って他人になりすまし、仕送りを続けるよう工作した手紙を母に送りつけることでした。しかもフクは、筆跡から本人が書いたものだと疑っていたと伝わっています。バレていた上で、仕送りは続いたわけです。
履歴書に「詩生活」とだけ書いて面接に行った男
中也は生涯、定職に就きませんでした。フクは息子に働いてほしかったようで、1936年には親戚の伝手で日本放送協会の文芸部長との面接がセッティングされています。
その面接に、中也は履歴書の内容がほぼ「詩生活」の3文字だけ、という状態で臨みました。当然そこを突っ込まれるわけですが、返した言葉が「それ以外の履歴が私にとって意味があるのですか?」。しかも本気で不思議そうに聞き返したと伝わっています。結果は不採用でした。
母を騙して仕送りを引っ張り、就職面接では詩人であること以外の経歴に価値を認めない。金の出どころに対する態度と、自分の仕事に対する態度の温度差がすごい人です。
それでも詩は残った
中也は1907年生まれ、1937年に30歳で亡くなっています。生前に出た詩集は1934年の『山羊の歌』1冊だけで、代表作として並ぶ『在りし日の歌』は没後の1938年刊行でした。
つまり、あの手紙で守られた仕送りの上で書かれた詩が、100年近く読み継がれていることになります。おまけに定職に就かなかった期間には、フランス語で読んだランボーの翻訳も進めていて、『ランボオ詩集』は亡くなる1か月あまり前の1937年9月に刊行されました。偉人の逸話としてはだいぶ手癖が悪いのに、残した仕事のほうで全部持っていってしまう人です。
伝記や逸話は語り継がれるうちに脚色されることもありますが、この件は無断退学の経緯も含めて年表に残っている話です。山口市の中原中也記念館では生い立ちから最期までがまとめて追えるので、詩から入って人物のほうが気になった人はそちらへどうぞ。