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竹丸和幸10勝は巨人の新人左腕で87年ぶり、前回は「沢村二世」中尾碩志だった

2026年9月12日 ・ トレンド「竹丸和幸 10勝 87年ぶり」より

9月12日の阪神戦で、巨人の竹丸和幸が7回を無失点に抑えた。三振は10個。味方が取った1点をそのまま守り切って、今季10勝目になった。

ドラフト1位で入った1年目の左腕が、9月の時点で二桁に乗せた。ここまでなら「ルーキーがよく投げた」で終わる話なのだが、この10勝には「87年ぶり」という数字がくっついている。87年前が誰なのか、名前を見てもたぶんピンとこない。調べたら、かなり濃い人だった。

1-0の1点を、7回まで一人で守った

試合は2回、松本剛の適時打で巨人が先制した。点が入ったのはそこだけ。読売ジャイアンツの公式アカウントは「先発の #竹丸和幸 投手は、7回無失点10奪三振の好投で今季10勝目! 2回、#松本剛 選手の適時打で先制」と投稿している。松本は3打数2安打1打点。

ヒーローインタビューで竹丸は「1点もやらないように、そのつもりで上がった」と話した。打った松本のほうは「竹丸様々」。この2つの言葉はスポーツ報知のヒーローインタビューの見出しになっている。

相手は首位の阪神で、この勝利で巨人は9月12日時点で0.5ゲーム差まで詰めた。順位表の数字なので、これを読んでいる頃にはもう変わっているかもしれない。

新人としては13年ぶり、左腕に絞ると87年ぶり

球団公式が速報で書いたのは「新人としては2013年 #菅野智之 投手以来となる二桁勝利」という内容だった。

つまり巨人の新人の二桁勝利自体は13年前にもあった。ただ菅野は右投げで、ここに「左腕」の条件を足すといきなり距離が伸びる。サンスポEXTRAは「87年ぶりの球団新人左腕2桁勝利!」と打ち、データを紹介する投稿でも「巨人新人左腕の2桁勝利は39年中尾以来の87年ぶり2人目」と書かれた。1939年から2026年で87年、計算も合う。

87年ぶり「2人目」というのが地味に効いている。巨人という球団が1934年からあって、新人の左腕で10勝したのは過去に1人しかいない。その1人が中尾碩志(なかお ひろし)だ。

「沢村二世」の触れ込みで入ってきた1939年のルーキー

中尾碩志は1919年12月1日生まれ、三重県伊勢市の出身。入団当時の登録名は中尾輝三だった。旧制京都商業から1939年に東京巨人軍へ入っている。

面白いのは入団時のキャッチコピーで、沢村栄治と出身中学まで含めて経歴が同じだったことから「沢村二世」という触れ込みで迎えられた。沢村賞の沢村である。ルーキーに付けるあだ名としてはなかなかの重さだ。

そして中尾は、その年のうちに看板を回収しにいく。1年目から39試合に登板して12勝。さらに11月3日の東京セネタース戦で、ルーキーのままノーヒットノーランをやった。NPBで11月にノーヒットノーランを達成した投手は、今のところ中尾ひとりだけだ。

その「12勝」は、14勝になってから12勝に戻っている

ここからが妙な話で、中尾の1年目の勝ち数は一度ひっくり返っている。

1939年の5月9日と7月15日、中尾はリードを保ったまま5回以降にマウンドを降りた。チームはそのまま勝ったのだが、当時の公式記録員は勝利投手を後を継いだヴィクトル・スタルヒンにした。この2勝の扱いは長く揉め、1953年にいったん中尾の勝ちへ修正されて14勝になる。ところが1962年、コミッショナー裁定で再びスタルヒン側へ戻され、中尾の1年目は12勝で確定した。20年以上かけて行って帰ってきた勝ち星である。

投球内容のほうもだいぶ荒い。1年目は224回を投げて137奪三振、そして与四球が174個ある。ノーヒットノーランを達成した11月3日の試合も、四球を10個出しながらヒットだけ打たれなかった。二桁四球でノーヒットノーランを達成したのもNPBで中尾だけという、褒めているのか怒られているのか分からない記録が残っている。

通算209勝、投球回と与四球は今も巨人の球団最多

中尾はその後、1940年と1941年に26勝ずつ。1941年は179奪三振でリーグトップ、防御率1.54だった。1942年に入営で退団し、1946年に巨人へ復帰する。

戦後は制球力とドロップで勝負する技巧派に切り替えた。9イニングあたりの与四球は、戦前の1939〜1942年が5.68個だったのに対し、1953〜1955年は2.09個まで減っている。同じ投手のデータとは思えない。

そして1948年、27勝で最多勝、防御率1.84で最優秀防御率、187奪三振で最多奪三振。1リーグ制最後の投手三冠王で、左腕としては初だった。この年に沢村賞とベストナインも受賞している。「沢村二世」と呼ばれた投手が沢村賞を獲った。

通算成績は16年で209勝127敗、防御率2.48。投球回3057と与四球1436は、今も巨人の球団最多記録として残っている(NPB公式の個人年度別成績で1年ずつ確認できる)。引退後は投手コーチや二軍監督としてV9を支え、1998年に野球殿堂入りした。

157センチだった高校生が、87年ぶりの2人目になった

一方の竹丸は、経歴だけ見ると中尾とは正反対のところから来ている。

広島市の崇徳高校に入った時点で身長は157センチ。中学の軟式チームでは4番手の投手だった。高校で野球をやめるつもりだったのを、崇徳の應武篤良監督に「城西大の練習会に参加しろ」と言われて大学へ進む。その城西大でも4年春までは2部リーグで、1部に上がったのは4年秋。そこで3勝1敗、防御率1.52を残した。

卒業後は鷺宮製作所へ。それまでやっていなかったウエイトトレーニングを始めて2年で体重が8キロ増え、最速149キロだった球が152キロまで伸びた。2025年のドラフトでは巨人が事前に1位指名を公言し、そのとおり1位で入団。背番号は21。

1年目の2026年はいきなり開幕投手を任された。球団で新人が開幕投手を務めるのは1962年の城之内邦雄以来64年ぶりで、3月27日の阪神戦で6回1失点、勝利投手になっている。最速153キロ、決め球はチェンジアップで、変化球の精度を評価されるタイプだ。

剛速球で四球を量産した中尾と、細身で変化球を操る竹丸。同じ「巨人の新人左腕」でもタイプはまるで違うのに、87年ぶりに同じ欄に名前が並んだ。速報で流れる「87年ぶり」というフレーズの向こう側には、勝ち星が行ったり来たりした昭和の投手がいる。

野球の記録まわりだと、千賀滉大がメジャー初セーブを挙げた日に記念球がスタンドへ消えた話も書いた。こちらもなかなかの記録の残り方だった。

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